いつも急いでいる気がしていた
なぜか、
ずっと急いでいる気がしていました。
私は、都会で働くごく普通のサラリーマンでした。
子供がいて、妻も働く共働きの家庭。
郊外に35年ローンで念願のマイホームを建て、毎朝、片道1時間30分の電車に揺られて通勤する日々。
共働きだから、家事は分担。
仕事が終われば急いで帰り、食事や洗濯。
休日は家族サービスで一日が終わる。
気づけば、毎日が「やるべきこと」で埋め尽くされていました。
忙しいのが当たり前。
頑張ることが正しい。
そんな価値観を、疑うことすらありませんでした。
気づかないうちに埋まっていく日常
妻も同じでした。
私より早く家を出て、急いで帰ってきて、子供を迎えにいき、夕食の準備をする。
私が帰り着く頃には、もうすべてが終わっている。
お互いに余裕がない。
「大丈夫?」と聞く間もなく、一日が終わっていました。
家に帰ると、妻と子供はもうご飯を食べ終わっている。
テーブルに残った食器を見ながら、私は小さく思う。
今日も間に合わなかった
家族のために働いているはずなのに、平日はほとんど顔を合わせることもない。
気づけば、こんな疑問が頭から離れなくなっていました。
自分は、何のためにこんなに忙しいんだろう
満員電車の中でふと立ち止まった問い
そんなある日の朝。
いつも通り満員電車に揺られながらスマホを眺めていると、ふと周りの人たちの表情が目に入りました。
みんな、どこか疲れている。
自分もきっと、同じ顔をしているんだろうと思いました。
このままでいいんだろうか
特別な出来事があったわけではありません。
ただ、その問いだけが、静かに残り続けました。
変わらない日常の中で生まれた小さな違和感
その日を境に、何かが劇的に変わったわけではありません。
朝は早く、帰りは遅い。
やることに追われる毎日も、何も変わりませんでした。
それでも、ひとつだけ変わったことがあります。
「忙しいのが当たり前」という感覚に、少しだけ違和感を持つようになったことでした。
たとえば、会社には間に合うのに、なぜか早足で駅へ向かっている自分。
誰に急かされているわけでもないのに、常に時間に追われている感覚。
本当は必要のない「急ぎ」を、自分で作っていたのかもしれない。
立ち止まってみると、当たり前だと思っていた日常の多くが、ただ続いていただけの習慣に見えてきました。
ゆっくり歩くと決めた朝
だから、ある日ひとつだけ決めました。
ゆっくり歩いてみよう、と。
たったそれだけのことです。
次の日の朝、いつもより少しだけ歩くスピードを落としてみました。
最初は違和感がありました。
周りの人がどんどん自分を追い越していく。
それでも、不思議と焦りはありませんでした。
空を見上げる余裕ができたり、街の音に気づいたり。
ほんの数分の違いなのに、通勤の時間が少し違って感じられました。
急ぐことの中に埋もれていたもの
それから少しずつ、家に帰ってからの自分も変わっていきました。
以前は仕事のことが頭から離れず、妻の話もどこか流しながら聞いていたと思います。
でも最近は、ちゃんと話を聞ける時間が増えました。
ほんの小さな変化です。
それでも、十分でした。
忙しさそのものが問題だったわけではありません。
ただ、気づかないうちに、いつも急いでいる日常を生きていたのかもしれません。
そして本当に必要だったのは、
急ぐことで見えなくなっていた「余白」
だったのかもしれません。
